色の歴史シリーズ第三弾。赤、黒に続いて今回は紫の歴史について調べてみました。
紫は一般的に「高貴」「優美」な印象を与えると言われていますが、それは何故なのでしょうか。歴史背景からヒントを探ることにしました。
紫色の原点を探る
目次
※今回の記事で紹介する紫のカラーコードは植物を染料としているため、絶対にこれ!というわけではありません。参考程度に宜しくお願いします。
紫の染色方法
紫草による染色
紫色は紫草の根から染色します。紫草は多年草で夏に白い花を咲かせます。花の色は紫ではないんですね。その染色方法は大変手間がかかり貴重な色でした。中江克己著の「歴史にみる日本の色」に染色方法が詳しく記載されていたので抜粋させて頂きます。
まず、採取した根を乾燥させたあと、石臼に入れて杵でつく。その後、麻袋に入れ、湯を注いで漉す。さらに、紫根から紫の色素が出なくなるまで、いくども麻袋をしぼり、染液をとるというから容易ではない。
(歴史にみる日本の色/中江克己著)
もともと紫根は熱に弱く、綺麗な紫色に染めるには、染液の温度が摂氏60度以下で染めなければならない。
(歴史にみる日本の色/中江克己著)
- 紫・・・紫草の根に含まれるシコニンという色素から染められる色
RGB | CMYK | |
---|---|---|
紫 | R141 G72 B152 | C52 M80 Y0 K0 |
貝紫~珍しい動物性の染料~
古代の人々は植物から色を得る事が多かったのですが、貝から紫を得る事も行っていたようです。佐賀県の吉野ヶ里遺跡で貝紫で染めたとされる布片が出土されています。吉野ヶ里遺跡は弥生時代を知ることができる日本最大の遺跡で、経糸が日本茜、緯糸が貝紫で染めた錦織物も見つかっています。
この貝から採取される紫ですが、日本だけではなく海外でも貝から染色を行っていました。紀元前十二世紀頃のペルーの遺跡から発見された木綿布が世界最古の貝紫と言われています。ヨーロッパにおいては、古代フェニキアで盛んに貝染が行われていました。小さな貝の内蔵(パープル腺)から得られる分泌物で染色しています。しかし、貝から採取される紫はほんの僅かです。二千個の貝を集めても得られるのは僅か1グラムにすぎないとか・・・
その為、「ロイヤル・パープル」と呼ばれ大変貴重で限られた身分の人しか身につける事が許されませんでした。
ロイヤル・パープルを使用されたとする品
- ジュリアス・シーザーの衣服
- クレオパトラの船の帆
- カエサルのマント
しかし、乱獲により貝が減少。5世紀には貝紫による染色は行われなくなりました。王家の色も「ロイヤル・パープル」から「ロイヤル・ブルー」へと移り変わったのでした。
奈良時代の紫~高貴な紫~
万葉集の紫
万葉集には多くの色が出てきます。紫については、紫草について詠んだものと紫色について詠んだものが10~16首ほどあります。(文献によって違いがあったので曖昧な表記です。)
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
訳:紫草の生えている野原を行き、立ち入りできない御料地の野原を行き来して、野の番人が見はしないでしょうか。あなたが私に向かって袖を振っているのを。(訳:weblio 古語辞典より)
これは額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ恋の歌。天智天皇が妻である額田王を連れて遊猟に出かけた時に詠まれた歌です。この歌に登場する「君」とは大海人皇子(後の天武天皇)の事。額田王の前夫で天智天皇の弟です。額田王は大海人皇子と別れた後、天智天皇の妻となっています。つまり弟と分かれてお兄さんと結婚しているんですね。何とも凄い関係だ・・。「袖を振る」のは、当時は明らかな愛情表現らしいです。
この額田王の歌に対する大海人皇子の返歌がこちら。
紫草(むらさき)の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも
訳:紫色の様につややかに美しい貴方が憎いなら、人妻であるのにどうして恋などするだろうか。
こちらにも紫が登場しています。紫色のイメージを額田王に重ねているのでしょう。
冠位十二階 最上位の位色
黒の歴史でも触れましたが、冠位十二階では位色という位を表す色が定められていました。この身分制度では自分の身分の色の冠を着用していました。自分の階位より上の色は着用が許されませんでした。黒は最下位でしたが、紫は最上位の色です。その後757年に定められた衣服令「 養老律令(ようろうりつりょう)」においても紫は最上位に君臨していました。
紫は紫草の根を染料としています。ただ、紫に染める為には大変手間がかかった為一部の高貴な人しか着用することができませんでした。このような時代背景から紫=高貴な印象が根付いたようです。赤の歴史では紅花染による赤が制限されていたと書きました。限られた人しか使用が許されない色は、人々の憧れの色だったのではないでしょうか。
1 | 大徳 (だいとく) | 濃紫 |
2 | 小徳 (しょうとく) | 薄紫 |
3 | 大仁 (だいにん) | 濃青 |
4 | 小仁 (しょうにん) | 薄青 |
5 | 大礼 (だいらい) | 濃赤 |
6 | 小礼(しょうらい) | 薄赤 |
7 | 大信(だいしん) | 濃黄 |
8 | 小信(しょうしん) | 薄黄 |
9 | 大義 (だいぎ) | 濃白 |
10 | 小義(しょうぎ) | 薄白 |
11 | 大智(だいち) | 濃黒 |
12 | 小智 (しょうち) | 薄黒 |
※色はwikipedia冠位十二階から抽出
RGB | CMYK | |
---|---|---|
深紫・濃紫 | R073 G055 B089 | C18 M38 Y0 K65 |
薄色・薄紫 | R200 G177 B205 | C18 M30 Y0 K10 |
※カラーコードは「すぐわかる日本の伝統色/福田邦夫著」「日本の伝統色 配色とかさねのの辞典/長崎厳監修」から取らせて頂きました。
平安時代の紫~優美な紫~
優美な貴族文化中心の平安時代は紫が愛された時代でした。平安時代の色には植物名が付けられたものが多くあります。また、十二単や源氏物語にも紫を見る事ができます。源氏物語は作者の名前も「紫式部」ですね。
古今和歌集に見る紫
紫のひともとゆへに むさし野の草はみながらあはれとぞみる
(詠み人不明)
訳:一本の紫草を愛しいと思う故に、全ての武蔵野の草が愛おしく思える
これは、愛する人を紫草に例えて詠まれた歌です。愛しい一人の人を想えば、その人に関わる全ての人達も愛おしく思えると言う意味です。この歌がきっかけで紫=ゆかりとして人との縁を象徴する色となったと言われています。今でも紫を「ゆかり」と読むことがありますが、そんな意味が込められていたのですね。
また、紫の根を和紙に包んでおくと和紙に色が移るので、自分の色を想う人に移して染めたいという思いがあったとされます。
現代で恋愛と言えば赤やピンクのイメージですが、当時は紫だったのでしょうかね。
紫草と言えば武蔵野と言うほど有名な地だったようですが、残念ながら現在野生の紫草を見ることは殆どできません。
源氏物語に見る紫
紫色・紫の植物が含まれる源氏物語の登場人物
- 藤壺中宮
- 紫の上
- 桐壺帝
- 桐壺更衣
源氏物語は「紫の物語」と呼ばれる事もあります。また、光源氏は紫の上に葡萄染の小袿を与えている場面があります。
枕草子に見る紫
清少納言による「枕草子」にも紫が多く登場します。清少納言が最も愛した色が紫だったようです。枕草子第一段の「春はあけぼの」に早速紫が登場します。
春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
訳:春は曙がいい。次第に白んでいくと、山際の空が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのがいい。
現代語訳は「 古典に親しむ:枕草子」からお借りしました。
「春はあけぼの~」は中学の時暗記させられた覚えがありますが、改めて読むと美しい文章ですね。当時は深く考えて無かった・・・。
大納言殿の参りたまへるなりけり。御直衣(なほし)、指貫(さしぬき)の紫の色、雪にはえていみじうをかし。(第百八十四段:宮に初めて参りたるころから抜粋)
訳: しかし、それは関白殿ではなく大納言殿(藤原伊周)が参上されたのだった。着ていらっしゃる御直衣や指貫の紫の色が、白い雪に映えてとても美しい。
現代語訳は「 古典に親しむ:枕草子」からお借りしました。
清少納言は色彩感覚が鋭かったのでしょうか、「紫が雪に映える」という表現にはっとさせられるものがあります。
この他にも「花も糸も紙もすべて、なにもなにも、むらさきなるものはめでたくこそあれ。」と紫のものは全て美しいと表現しています。
十二単に見る紫
十二単についてはこちらの記事にまとめてありますので良かったらどうぞ。「紫の薄様」「紫村濃」など紫を使用した襲色目があります。
十二単の襲(かさね)色目をweb制作に取り入れてみる
平安時文学に登場する紫
RGB | CMYK | |
---|---|---|
紫苑色 | R131 G122 B161 | C40 M40 Y0 K30 |
藤色 | R188 G188 B222 | C20 M25 Y0 K0 |
杜若色 | R70 G83 B162 | C80 M70 Y0 K0 |
二藍 | R111 G73 B85 | C45 M64 Y0 K40 |
葡萄染 | R109 G46 B91 | C71 M89 Y48 K12 |
鎌倉時代の紫~武将が身につけた紫~
鎌倉時代は強さを誇示するはっきりした色調の色が好まれました。武士の時代ですね。しかし、紫が衰退したわけではありません。紫は最上位に君臨する色。つまり禁色と呼ばれ、限られた身分の人しか使用が許されませんでした。それが鎌倉時代に入り、禁色が事実上消滅した事により紫を鎧に取り入れる事ができたのです。鎧の色糸威(いろいとおどし)という部分にこれまで禁色とされていた緋色や紫を使用する武将が現れました。紫裾濃(むらさきすそご)と呼ばれ上方から下方へ次第に濃くなる織り方もありました。裾濃という呼び方は平安時代の名残ですかね。平安時代の十二単の色の組み合わせを襲色目と呼ばれたように、威しの配色を威の色目と言います。
日本の鎧甲って細部の装飾が凝っていて軍装と思えぬものが多く見られます。次第に婆娑羅(バサラ)大名が現れ、目立った者勝ち!?のような奇抜なものが多く作られました。日本人のファッションセンスは独特だと言われていますが、この時代の武将たちも個性溢れていて面白いです。興味のある方は一度画像検索してみる事をお勧めします。
江戸時代の紫~歌舞伎役者が流行らせた紫~
江戸時代は奢侈(しゃし)禁止令により華美な色の着用が禁止されていました。江戸時代の人々の装いに茶系が多いのはこの為です。
そこで、人々は表は地味にし、裏地に紫などの華やかな色を取り入れてファッションを楽しんでいました。制限された中でもファッションを楽しむ心意気が粋ですね。
江戸時代の歌舞伎役者はファッションリーダー的な存在でもありました。人気の役者が衣装に使用したり、家系を表す色として使用した色に「役者色」と呼ばれるものがありました。江戸で上演回数最多と言われる演目「助六」において、主人公の助六が巻いた紫色の鉢巻をきっかけに江戸紫が流行りました。助六を演じたのは市川團十郎。スター役者が身につけた衣装から流行色が生まれる事が多々あったようです。
歌舞伎と言えば隈取という独特なメイクが印象的ですが、この隈取を考案したのは初代市川團十郎だったそうです。
江戸時代に流行った役者色(茶系の色もありますが、合わせて紹介しておきます)
- 江戸紫・・・演目「助六」において市川團十郎が身に付けた鉢巻の色
- 路考茶(ろこうちゃ)・・・瀬川菊之丞の代々の俳号「路考」から命名された。演目「八百屋お七恋江戸染」の中で瀬川菊之丞が着用した衣装の色
- 團十郎茶・・・市川團十郎にちなんで命名。歌舞伎十八番「暫」で着用した衣装の色。この演目は市川團十郎お家芸。
- 梅幸茶(ばいこうちゃ)・・・初代尾上菊五郎が好んだ色。梅幸とは尾上菊五郎の俳号のこと。
RGB | CMYK | |
---|---|---|
江戸紫 | R114 G78 B149 | C35 M70 Y0 K28 |
路考茶 | R146 G122 B48 | C0 M20 Y70 K55 |
團十郎茶 | R162 G101 B63 | C0 M50 Y60 K45 |
梅幸茶 | R159 G147 B58 | C0 M5 Y70 K50 |
色以外に、歌舞伎役者発信の和柄も様々あります。市松模様は初代佐野川市松が舞台衣装で身につけた袴の柄から命名されています。
また、この時代においても紫の染料が貴重であったことに変わりはありません。そこで高価な紫草の代わりに蘇芳で染められた「似紫」という色が誕生しました。
RGB | CMYK | |
---|---|---|
似紫 | R125 G89 B141 | C44 M60 Y0 K30 |
まとめ
いかがだったでしょうか。紫が高貴、優美なイメージを与えている理由は歴史背景にもばっちり裏付けられていたのですね。赤や黒は数種類の染料がありましたが、紫は紫草しか無かったみたいですね。(先史に貝を使用していますが、すぐに衰退しているので)それだけでも紫がどれだけ貴重だったかが推測できます。
他にも色の歴史シリーズをまとめていますので、良かったらどうぞ!
参考文献
- すぐわかる日本の伝統色
色の歴史シリーズの記事おなじみの文献。フルカラーでとても見やすいわかりやすいです。しかもCMYK,RGBのカラーコード付き!歴史背景に準えながら日本の伝統色を知りたい人におすすめです。まだ記事にしたい色があるのでその時にもお世話になりそう。
- 歴史にみる「日本の色」
こちらも色シリーズの記事でお馴染みの文献。「すぐわかる~」より歴史背景を深く掘り下げています。カラーは巻中に数ページなので、色のイメージは補足資料が必要かも。色の歴史に興味がある人にはおすすめします。
- 色名の由来 (東書選書 74)
だいぶ古い書籍ですが、色について細かく記載があります。大きく分けて前半に各時代とごとの色の歴史がまとめてありました。- 日本の伝統色 配色とかさねの事典
カラーコードが知りたい人にお勧め。色の組み合わせのサンプルも豊富です。歴史については簡単な説明書き程度。
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